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クマー先生と飯吉先生のお話を踏まえながら、日本の大学におけるオープンエデュケーションについてどう考えていけばよいのか、ディスカッションの参考になる問題提起としてお話しする。

1. 東京大学とMITモデル

山内祐平 クマー先生からは、影響をもたらす2つのトレンドとして、「オープン性」と「集団性」が示された。このうち「集団性」が日本の私たちにはやや分かりにくかったと思われるので補足したい。
東京大学は、MITのTEALと同様な教育施設である「KALS」(駒場アクティブ・ラーニング・スタジオ)を設置し運用を開始した。グループディスカッションをしたり、統合されたテクノロジーを導入することによって、教育の付加価値を上げるようなアプローチの新しい教室空間である。
3年前に東京大学が教育の情報化の方針を決める際、教育において情報通信技術を利活用することには、大きな2つのモデルが存在していた。
一つは「MITモデル」である。自分の教育リソースをオープンにしていくことで、コミュニティをつくることを一つの柱として置き、それをきっかけにしながらiLabやTEALの様な実空間の教室における教育の付加価値も上げていく、コンビネーションをねらったアプローチである。
もう一つは「スタンフォード・モデル」である。オンライン上に教育サイトを開いて、学位を売っていくものである。
東京大学としては、結果的には、オープンな学習コミュニティをつくることと、実空間の教室における教育の付加価値を上げるために情報通信技術を利用するという、「MITモデル」とよく似たアプローチを選択した。おそらく、MITと共同でいろいろなことができると考えられるし、OCWからiLabやOKIといったものまでつながっていくのではないだろうか。

2. 日本における「オープン」の取組み

飯吉先生からは、オープンエデュケーションに関して総括的なお話をいただいた。「教えと学びの知」をどういう風に共有していくのか、ということがこれからの大きな問題であろうと考えている。
ここでは講演で示された「オープンテクノロジー」「オープンコンテンツ」「オープンナレッジ」に沿って、日本の現状について見ていきたい。

2.1. 日本での「オープンテクノロジー」

オープンテクノロジーについては、たくさんの大学研究機関によってLMSやCMSが開発されている。国際的には「Sakai」であるとか「Moodle」が力を持っている。基本的には多様なものがあることが重要であるが、日本ローカルでつくられたものがあることも確認したい。

  • eXcampus(NIME/東京大学)→ LearnSuiteへVer.Up予定
  • CFive(東京大学)
  • CEAS(関西大学)
  • WebOCM(大阪大学)
  • NetCommons(NII)

このようにさまざまなLMS/CMSがオープンソースという形で公開されており、日本の風土に根ざしたオープンシステムを提供しようという動きが活発である。

2.2. 日本での「オープンコンテンツ」

山内祐平 日本オープン・コースウェア・コンソーシアム(J-OCW)というものが15大学をメンバーとして立ち上がっている。東京大学もそのメンバーである。
各大学が自分たちの講義のリソースを公開しており、全ての大学合わせて700くらいある。アメリカ以外としては最大規模のものではないかと思われる。こうして、それなりにコンテンツを公開していくという動き、特に授業コンテンツを公開していくという動きは非常に活発に行なわれるようになっている。
コンテンツ公開はOCWという形だけではなく、ポッドキャスティングのような形もある。系譜が異なるように思われるかも知れないが、東京大学ではすでに「東大ポッドキャスト」が存在しており、ノーベル賞研究者である小柴先生の講義なども、携帯プレイヤーやパソコンで無料視聴することができる仕組みができている。
東京大学に限らずさまざまな大学で、公開講義を中心とした大学の持っている知を公開しようとする機運が非常に高まっており、その意味で、オープンコンテンツの部分では一定の成果が上がっていると考えてよい。

2.3. 日本での「オープンナレッジ」

ところが、飯吉先生のプレゼンテーションにあった、「学習を支援する教育的に開かれた仕組み」に関して、日本にあるかと問われると、大規模に展開されたものは日本にはない。もちろん、研究的にやっている例はいくつかあるかも知れない。これは我々がこれから取組んでいかなければならない大きな課題であると認識している。
具体的には、Rice Universityの「Connexions」のようにリミックスして出版していくようなものや、Carnegie Mellon Universityの「OLI」のように個々の学習者に対して支援していくようなアプローチ、そしてカーネギー財団の「KEEP Toolkit」のような、教える人がひのコミュニティの中で教えと学びの知を共有するような仕組みである。

3. 広告的価値から教育的価値へ

日本の大学におけるこうした「オープン」な取組みの推進は、現時点で広報的価値に重きを置いたものであるというのが実態である。
大学の知を公開することによってどんなメリットがあるかというと、「大学のことを知ってもらい、大学というのがこういうことをやっていて、こんなに良い授業をやっていると理解してもらう」ことで、大学のブランドが認知してもらえることである。こうした理由から、多くの大学がコンソーシアムに参加していると思われる。
しかし、これはある意味、非常に矛盾に満ちた動きでもある。コンテンツが増えれば増えるほど、コンテンツのインフレが起こる。最初は珍しいし、10コース程度しかなければ「ふむふむ」と全部見てもらえるかも知れないが、飯吉先生の「夕食のまぐろ」話と同じで、増えれば増えるほど本当に見たいものにちゃんとアプローチして、それが自分の学習に役立つかどうかを担保しにくくなってしまい、同じく増えれば増えるほど広報的価値も出しにくくなってしまう。こうなってしまうと、たくさん良い講義がある中で、良い講義を一つだけ出しても広報的価値が上がることはほとんどなくなってしまう。
つまり、日本におけるOCWの動きはひとつの曲がり角に来ていると思われる。オープン・コース・ウェアがダメというわけではなく、また広報的価値はそれで大事でもあるが、それだけに頼ることが、だんだんと難しくなってきているのも確かである。
ここで何らかの形で別のモデルのようなものを検討していく時期にきているのではないか。実空間における教育的価値かもしれないし、バーチャルな方の教育的価値かもしれないが、大学の知が単純に公開されるだけではなく、教育的価値を持つような仕組みをつくる必要がある時期にきているのではないかと思われる。
それは従来やってきた、第一の波である「オープンシステム」や第二の波である「オープンコンテンツ」に対する努力と矛盾するものではなく、その一定成果をあげたものを引き継ぎながら、それを上手に統合してさらなる教育的価値へと結びつけることが求められている。

4. 可否はなく、方法を求めて

山内祐平 このような日本の現状に対して、「アメリカは良い」という愚痴のようなものが聞こえることも承知している。アメリカの大学は豊かだし、専任のスタッフがいる。
それに比べて日本はどうかといえば、教育の情報化は遅れていて、専門のスタッフなどおらず、ほとんどアルバイトみたいなスタッフでギリギリ回している状態である。
また、教育的価値といえば、現場の教員が動かなければならないが、授業公開の文化がある小中高ならいざ知らず、大学教員は総じて自分の授業を公開するような文化がない。大学教員にとって、論文の数を上げれば研究業績として評価が上がるものの、大学の知を公開するために教育的価値を持つようなサイトを作る教育活動に力を入れても、大学が評価してくれるかというとあまり評価してもらえない現実がある。
こうした困難を乗り越える仕組みを作りながら、オープンエデュケーションを発展させる取組みに関われるようにしなければならない。
考えてみれば、東大でも3年前まで、OCWやPodcast、そしてKALSのような教室は何もなかった。3年間で、一応これだけのことができるのである。東京大学だからできるのだと思われる方もいるかもしれない。しかし、やる気があればスケールは別としてどこの大学でも可能なことだと思われる。どれだけやるかは別として、工夫をすればできるはずである。
もはや、「できるできない」という問題ではない。「どうすればできるのか」ということが問題であり、そこを一緒に考えていきたい。

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